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 「聴く」ことの力

ちょっと前に読んだ鷲田清一さんの本、“「聴く」ことの力”から、メモ。

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わたしたちはコミュニケーションといえば、意思の一致、つまりコンセンサス(合意)をイメージするが、もしコミュニケーションを動機づけているものが、そのなかで各人が他者の存在とともにその前にいま疑いもなく存在するものとして自分を感じることにあるとするならば、そこにおいてもっとも重要なことは、他のひと、じぶんとは異なる他なる存在をそこにありありと感受するということであろう。他者との差異に深く思いをいたすことで、じぶんという存在の輪郭を思い知らされることであろう。つまりそれは、<他>なるものをとおした自己の経験として、意思の差異というよりむしろ存在感情の差異とでもいうべきもの、あるいは感受性や思考のはたらきだしかたの微妙ではあるが深い差異をこそ感受するものでなければならない。(P91)

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苦しみを口にできないということ、表出できないということ。苦しみの語りを求めるのではなく、語りを待つ人の、受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれおちてくる。つぶやきとして、かろうじて。ことばが《注意》をもって聴きとられることが必要なのではない。《注意》をもって聴く耳があって、はじめてことばが生まれるのである。(P163)

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ことばが大きなミットでうけとめられる、迎え入れられるという、あらかじめの確信がないところでは、ひとはことばを相手に預けないものだからである。苦しみをわざわざ二重にすることはないからである。聴く者が聴きたいように話を曲げてしまうところに、苦しみのなかにあるひとの、尊厳をすら根こそぎ奪われた弱さが、傷つきやすさがある。(P164)

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過剰な合理主義ということばがある。それは、会話においてことばとして言表された意味内容の論理的な一貫性に執拗にこだわる態度のことで、会話が横道に逸れること、内容にいいかげんなところがあること、前後で矛盾した主張をすること、結論のないこと、そして言い淀みや不意の沈黙がはさまることなどといった会話の曖昧な部分や空白を、許容できないような心性をいう。そのときひとは、ことばをその意味内容に限っており、そのことで声がもつ肌理や抑揚、音色や律動がおのずから醸しだす別の意味作用を禁じているわけである。(P181)

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V・フランクルは、ずばり「ホモ・パティエンス」と題した論考(1951年)のなかで、「理性のひと」にたいし「苦しむひと」を対置している。理性的な判断のひとであるまえに、苦悩を引きうけるひとであれ。そう静謐に語り出している。人間という存在はそのもっとも深いところでは、「受難」(passion)であり、つまりは「苦しむひと」(homopatiens)であるというのだ。生きもの(Lebewesen)とは苦しむもの(Leidewesen)ではなかったかというフランクルの語呂合わせをまねて言えば、生きる(live)ことそのことがしばしば災い(evil)でありうるように、だ。(P234)

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

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