恵み

恵みとは、報酬とは真逆にあるものですね。

キリストとともに生きるというのは、恵みで生きるという言い方もできると思うのです。

つまり、キリストとともに生きるために、自分の努力や行いは全く必要がないということ。

が、どうしても人(もちろん含自分)は、キリストとともに生きようとする時に、報酬の概念が入ってしまうのです。

せっかく信仰のみで、無条件で一方的に(=これを恵みという)救っていただいたのに、主とともに生きること、そして霊的に成長することを、なぜか恵みでなく、努力の報酬として得ようとしてしまう。

道徳的な行いはもちろん、時にとても信仰的に見える行為さえも、報酬というフィルターにかけてしまう。

祈りをもっと積まないと、とか、聖書通読毎年やりつづけないと、とか、たくさん讃美しないと、とか、たくさん悔い改めないと、とか、許さないと、とか、信頼しないと、とか。

いや、それはそうなんだけど。すごく大切なんだけど、なくてはならないことなんだけど。

でも結局こういうことさえも、「〜しなければならない」と言った瞬間に、律法になってしまう。人を裁く基準になってしまう。「〜しないから、ダメなんだよ」ってなっちゃう。

そう思えてしまうのです。

救いも、成長も、信仰によって、恵みによって。

祈りも、聖書通読も、讃美も、悔い改めも、許しも、信頼も、すべて結果。恵みの結果。一方的な主の憐み。

報酬のスパイラルじゃなくて、恵みのスパイラルで生きていきたいと、すごく強く願う。

自分の弱さをわきまえ知り、主がどれほど素晴らしい方かということに感動すれば(ただしこの2点が最も難儀なんだろうけども)、おのずと考えも行いも変わる。

のではないかなーと、この頃思うのです。

だから、今日も祈ろう。そして主がどれほど素晴らしい方かを知るために、聖書を読もう。

ただし恵みによって、信仰によって。

なんかまとまんないなー。まとまんないなー。