生きるのも主のため、死ぬのも主のため。

もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 ローマ人への手紙14:8

For if we live, we live to the Lord; and if we die, we die to the Lord. Therefore, whether we live or die, we are the Lord's.(NKJV)

                                                                                    • -

父が生還したことと、Bishop Hawkinsの昇天のことを、考えていました。

人の命が終わる順番は、人にはわからないなとつくづく思います。
生きているということは、やはりどう考えてもそこに目的があり、神さまからの使命があると思えてなりません。

父が生かされているのは、その人生のラストスパートを通して、何か主がしようとしていることが、まだあるんだろうな、と思うのです。

と同時に、この世での命を終えることにさえも、神様が各人に与えた目的・使命があると、そう思えてなりません。

Bishop Hawkinsを偲ぶ多くの人達の声を聞けば聞くほどに、(見れば見るほど、か?on FBだからね。)
いかに多くの人達が、その音楽と歌詞を通して、信仰を励まされ、人生を励まされていたのか、と思わされます。
そして今、その人たちが改めて、その歌詞を通して、キリストから力を得ているのでは、と想像します。

Bishop Hawkins昇天後、私も"Love Alive"シリーズをずっと聞いていますが、
その歌詞から改めて、キリストがどれほど私を愛して下さっているか、また、キリストとともに歩む生き方がどれほど豊かなものかを思い起こしています。

Bishop Hawkinsの死が、多くの人にキリストにある希望を思い起こさせているとしたら。

それは、まぎれもなく、主が意図していることなんじゃないかなと、勝手に思ったりします。

つまり、死ぬことにさえも、主の計画と目的がある、ということになる。

そして、冒頭のみことばを思い出すのです。

私たちは、主のために生き、そして、主のために死ぬ。

死ぬことが、マイナスではない。本人にとっても、残された人にとっても。

父のX-dayを、遠くない将来迎える時に、私はそう言うことができるだろうか。

心からそう言うことができたら、なんて平安な人生を送れることか!

そんな信仰がほしいと、心の底からそう思います。